進撃の巨人のラストを見て気づいた本当の自由とは・アニメ考察感想

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空飛ぶ引きこもりライターの千聖(ちさと)です。

アニメ進撃の巨人がついに、10年の時を経て終わりましたね・・・!私は、アニメから見始めたので、アニメで最後まで見切ろう、と決めて、その年月が10年。

10年くらい経つと、もはや途中途中に何があったのかを想い出せなくなることも多々ありますが、進撃の巨人はひとつひとつのエピソードがあまりに衝撃的だったため、エレンたちの生き様を、子どものときから大人になるまでずっと、追い続けていったような感覚でした。

その人生はあまりに過酷で、残酷で、でもなのに、彼らは世界を恨まず、世界を救う道を選んだその選択に、涙なしではラストを見切ることができませんでした。

そしてこのアニメを見た時、ちょうど私はとてつもなく病んでおり、人生のちゃぶ台をひっくり返したい、というくらい何もかも投げやりな気持ちになっていたのですが、このラストを見て、自分の背骨を叩き上げられたような、そんな気持ちになりました。

 

そんなラストからの気づき、私が感じた、本当の「自由」の在り方についてお伝えしたいと想います。

下記、アニメの最後までのネタバレを含みます。

(Amazonプライムで最終話まで見られます。)

 

 

 

 

私が最も心揺さぶられた場面

それが、ジークと、アルミンが、「道」で、なんのために生きるのか、というようなことを対話している場面でした。

生き物の生きる目的についてジークは、

「より多く、より広く、より豊かに・・・つまり、生きる目的とは増えることだ」と語ります。

 

この時のジークは何もかも投げやりになっている感じで、その時の私の心情とすごく重なりました。生き物は増えるために生きている・・・これ以上増えるために、なにするの?こんな醜い世界なのに・・・こんなどうしようもない世界なのに・・・そういうような感覚で。

 

増えること、増やすこと、たとえば生きるためにお金を増やす、ということもそうかもしれません。

もっともっと、もっともっと、どんどんどんどん、増えるために、増やすために、でもその増えたさきに、行われるのは殺戮で、争いで、終わりのない戦争で。

 

 

そういうことをやるために、増えることを目的とするのならば、もう増えなくていいじゃん。増やさなくていいじゃん。

もうなにもかもどうでもいいじゃないか、というような。ジークの言いたいことはすごくよく分かりました。

 

「なぜ負けちゃだめなんだ?生きているということは、いずれ死ぬということだろう?

案外、事切れる前は、ほっとするのかもな。何の意味があるかもわからず、ただ増えるためだけに踊らされる日々を終えて、これで自由になった、って」

 

 

 

でも、その時にアルミンが言ったことばに、はっとさせられたのです。

 

「あれは夕暮れ時・・・」

「丘にある木に向かって、3人でかけっこをした。言い出しっぺのエレンがいきなりかけ出して、ミカサはあえてエレンの後ろを走った。やっぱり僕がどべで、でも、その日は風がぬるくて、ただ走っているだけで気持ち良かった。枯葉がたくさん舞った。

そのとき僕はなぜかこう思った。ここで3人でかけっこをするために、生まれてきたんじゃないか・・・って」

「雨の日、家の中で本を読んでいるときも、リスが僕のあげた木の実を食べたときも、みんなで市場を歩いたときも、そう思った。

このなんでもない一瞬が、すごく大切な気がして」

 

「僕にとってこれは、増えるために必要でもなんでもないですけど、すごく、大切なものなんですよ」

 

ああ、そうだ、と。いつからこの感覚を、忘れてしまっていたのだろう。

置いてけぼりにしてしまっていたのだろう・・・

 

そう想いました。

 

 

きっと、本当の自由は、

どうでもいいことを、日々のなんでもないことを、楽しむ中に、あるんじゃないかなと想ったのです。

進撃の巨人の中で、ああ、自由だなあ、本当にいいなあ、と感じたのは、エレンたちがはじめてマーレを訪れたときのこと。はじめての車に驚き、アイスに驚き、そして、キャンプ生活をするひとたちが、コップとも言えない缶詰の中に、お酒を注ぎ、ご飯をふるまい、エレンたちをもてなしたあの場面でした。

 

それは、戦争で自由を奪われた人たちのキャンプ施設で、自由とは程遠い、誰かのお金を盗まなければ生きていけないときもあるような、明日のご飯にも、餓えにも寒さを考えなければいけない状況の人たちだったのに、お酒もご飯も、惜しげもなく振舞い、ただ今日という一日の、一夜を、見ず知らずのひとたちと、語り合い、飲み明かして、簡素なテントでみんなで雑魚寝して。

 

効率や結果や、生産性。

それを考えたら生まれない時間。それを、思いっきり楽しみ、味わう。

 

そしてそれこそを忘れずに生きていくことができれば、人はもしかしたら、争わずに生きていけるのかもしれない・・・と、そう思ったのです。

私も、投げやりになっていたとき、求めていたのは効率でした。その仕事自体は楽しかったので、それをやっているのはすごく幸せだったのです。

ただ、健康が悪化したことによって、それが突然まるで、事故にでもあったかのように急に止められ、投げ出され、効率的なもの、時間通りにすることなど、それ以前に大事にしていたことが、急にできなくなり、恐ろしいほどの無価値観におそわれました。

 

毎日ただただ、寝ているだけしかできない、寝てるだけも腰が痛い、治ったと思えばまた熱が出て、うなされ、時間だけが過ぎていく。お客さんにメールのお返事もできない。積みあがっていく仕事。何もかも効率的ではなく、時間通りではなく、生産性もない。

そういう気持ちの時は本当にイライラしました。何もかもに当たり散らしたくなり、何もかもがどうでもよくなり、人生のちゃぶ台をひっくり返したくなりました。

 

自分の小さな人生ですら、そんな感じなので、もしももっと大きな渦中にいたのなら・・・

それが、戦争のはじまりになるのかもしれません。

 

増えることは生き物の目的なのかもしれない。

だからときに、効率や結果のようなものに、飲み込まれてしまいがちになるけれど…そしてそれを考えたら、ひとは、何かに追われ、よくわからない恐怖や苛立ちに支配され、争いはじめる。

10年、このアニメが完結するまでの時間のように、アルミンたちが途方もなく長い間、あまりに多くの犠牲の先にたどり着いたひとときの願いの平和でさえも、あっという間にまた戦争で吹き飛ばしてしまうような場面まで描かれ、本当に、人はこういう歴史を繰り返してきて、いまもなおそうだと本当にバカみたいで醜いと思う。

 

それでも、キャッチボールのような、みんなでかけっこをするような、リスに木の実をあげるような。

そんな、なんでもない時間たちを、楽しむことができる人間や、世界は、美しいと想います。

 

「何の意味もない、でもたしかに、俺はずっと、キャッチボールをしているだけでよかったよ」

「あなたとまたキャッチボールができるなら、また生まれてもいいかなって」

「だから、一応感謝しとくよ、父さん」

 

そう感じられ死んでいったジークのように、ただ、なんでもない、意味や生産性や効率から、外れた、日々の彩りやあたたかさを、慈しんでいくこころが、多くの人にある世界になったなら。

いつの日か、「あきれるほどおめでたい理想の世界」になると、私は信じます。

 

だから、本当にやりたかった「仕事」で、生きる

逆説的なようですが、今を楽しむことは、何かを諦めながら生きることとは、違うと考えます。

 

今の日本では、誰でもひとしく、生活保護を受けることができます。

ドラマ「相棒」で、生活保護を受けることができずに亡くなった人のお話が書かれており、以前は確かにそういうこともあったようですが、現在の日本の社会では、それは明確に禁止されており、明日のご飯に困るときは、かならず、生活保護を受けることができる決まりがあります。

だから、今の日本では、申請すれば、餓えることも寒さを感じることも、ない国になりました。

 

それは、いままでの過去の方々が、アルミンたちのようなひとたちが、生まれてくる未来、子どもたちの幸せを願い、自由を願い、紡いできて、作り上げたものたちで。

それは本当に有難く、尊いこと、それに尽力し繋いでくださったみなさまに感謝が尽きません。

 

だから、ただ、日々を楽しみ味わうことだけでいいのだとしたら、生活保護、あるいはそうやっても生きていける世界を、ベーシックインカムなどの方法で、世界は目指しているのかもしれない。それだけで、戦争もなくなるのかもしれない。

 

でも、テントでの生活、自由を奪われ、豊かさの無い中でもあれだけ楽しく日々を味わっていた人たちを見て、一方で、明日の餓えに困ることがなかったはずのマーレの一部のひとが、誰かを虐げることでしか生きられなかったのは、一番はやはり、精神的な餓えや寒さこそが、人を争いにかきたてるのだと。

どんなに今を楽しもうとしても、未来に「自分で」希望を持つことができなければ、恐怖だけに支配される、何かを責め、何かを敵にしなければ、生きていけなくなってしまう。

 

私が最も精神的に餓えていた、会社員時代のときは、~~という国が、日本に対してこういうことをした、とか、政治家が悪い事ばかりしている、お金持ちがこういう悪事をはたらいている、というような情報ばかりを目にしていて、その情報を目にすることでしか、気を晴らすことができなかった。

国が悪い、あいつが悪い、会社が悪いんだと、そういう感情になっていて、その感情はまるで、パラディ島の悪魔たちを糾弾するマーレ人のようだったと、今は思います。

 

そして日々は、満員電車の中で、人を押しつぶしながら毎日電車に乗り、人を押しのけ進み、我先にと乗り込み、誰かに席や道を譲るような気持ちなんてまったく持ち合わせていませんでした。

そしてやはりジークのように、父が私をこういうふうに育てたから、私は今苦しいんだと、父が私の、好きな事を仕事にして生きることを認めてくれなかったから、今私はこんなに苦しいんだと、父を責めてばかりいた。

 

だからこそ、誰かを敵にしたり、誰かを非難したり、そうすることでしか気が晴れない状況で生きるのではなく、自分自身が自分の力で、心の底から、本当にやりたかった仕事を、やれる人生を目指すこと。

 

ここで大事なのは、その生き方は、「仕事」とともにある、ということです。

本当に生きたい生き方をただ目指すだけなのであれば、エレンもマーレの一部のひとも、そうだったかもしれない。誰よりも自由に生きた結果、8割の人を虐殺することになったのかもしれない。

 

だけれどもそうではなく、働く、ということ。

本当の仕事とは、事に仕えること、誰かのために、なにかのために在るもの。

自分勝手に欲望を求めるものではなく、今を味わうことや、楽しむこと、キャッチボールだったり、リスに木の実をあげるような、そんな豊かさ、それそのものが、誰かのためになるような、道端の花にも笑いかけることができるような、そんな豊かな仕事。

 

例えばカフェで味わった珈琲の美味しさを、誰かに届けたいとカフェをつくるように

私自身もこのように、アニメを見ての気づきを、ことばにして、お伝えしているように。

 

それは、自分で、自分を、飢えや渇きから救うことができる力でした。

それが、未来にいつだって希望を感じることができる生き方。

 

本当にやりたかった仕事をし、生きる生き方も、時に苦悩します。

普通と違うことや、本当にやりたいことだからこそ、先に進むことが怖い気持ちになるときもある。

 

ですが、私は、それをやらせてくれなかったと、

だから私は嫌な仕事について我慢してこんなに苦しんだのに、と父を責める生き方ではなく、国が悪い政治家が悪い会社が悪いと誰かを責めて生きる生き方ではなく

 

めいっぱい、めいいっぱい幸せにのびのび、

生きていくこと、

日々笑って、これが本当にやりたかったんだよねと、そう言いながら生きていける人生を父にも見せてあげられる、会社にも、あのときのおかげで今があると言える、国にも、こんな制度まで作ってくれたなんて有難うと言える。

 

周りのひとにもおすそわけすることができる。

 

そういう自分になりたいと想いました。

そして、そういう視点で見る世界は、争いではなく譲歩、和の世界で、奪い合うのではなく、共存共栄して行けるという考え方の世界で、それは本当に、あきれるほどおめでたい世界でもあったから。

 

だから、そういうふうに生きる人が増えることが、エレンたちが夢見た、壁の外の世界になると、信じて、私は「本当にやりたかった仕事ができる」人の和を、広げるために、これからも、活動していきます。

 

 

お読みいただきまして、ありがとうございました。

 

 

 

 

本当にやりたかった仕事の生き方を目指す場

 

 

 








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