文章の庭【観測日記】

今日は日記です~
私は去年から、庭の仕事をはじめました。
もともと、庭の仕事、自然に携わる仕事はやってみたいと思っていて、 「13歳のハローワーク」という本のなかで、小説家以外に私が惹かれたのが、 樹木医という職業でした。
木のお医者さんです。
そして、 東京の会社をやめると決めた時
文章を書く仕事か、
木に携わる仕事をするか、
というところで、悩んだくらいでした。
でも、私は文章を書く仕事を選び、
それははっきりと私の核だったということがわかり、それはいまでも変わりません。
でも、やってみたいと思って実際に庭師の仕事をはじめて、楽しいからというのはもちろんだけれども、自分でもなぜ、1年が経とうとするいまでも、続けているのか。
なぜ、よほどのことがない限りは、あと5年くらいは続けてみたいと思っているほどなのかが、よくわからなかったのですね。
でも、ある時、はっとしました。
私は、庭を文章だと思っているんだな、と。
たとえば、こんなことがありました。
剪定をしているとき、どうにもこうにもはさみを入れても入れても、整わなくてどこをどう触ればいいのかわからなくなったときがありました。
全体的に問題だという気がして手を入れるけれども、
それをすればするほど、余計にゆがんでいく。
それを見かねたこの道40年以上の大ベテランの先輩が、はさみをいれました。
ほんの、数回だけ。
なのに、あっというまに整ってしまいました。
それに心底驚いたのですね。
全部直さないとダメだと思っていたのに、と。
それを感じたときに、 そういえば、文章でもこんなことがあったことを思い出しました。
記事全体がなにか違和感。
言いようのない感覚がある。
もうこれは書き直さないとダメだろうな、と。
でも竹川さんに相談すると、
「最後の一言だけこうしては」
と
その一言を修正すると・・・
違和感が霧のように消えてしまったのです。
というようなこととリンクして、
そうか、この庭の仕事の感覚は、文章の編集作業なんだ。
どこをどう削り、残し、整えるかを考えてゆく、文章の剪定。
私はその仕事が好き。
だから私にとって庭は文章。
庭という別の視点で、 文章を見れる機会に私はとてもニヤニヤする。
そしてそれが相互に作用しあって、
剪定の方も文章の方もどちらも上達していけるのだとしたら、
それはめちゃくちゃ面白いな、と思う。
それは、いま何をしていても、
どんなふうに見える時間であったとしても、
意味のないものはひとつもなく、
そのすべてが、同じ川の水として、
ちゃんとここへ流れ着いている、ということだから。
そう思いながら、剪定ばさみをしまう今日このごろ。

心の奥の灯りをそっと想い出す、小さな隠れ家。

もう同じ生き方ではいられない… そう静かに感じはじめているあなたへ
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