本音と建前ということばの違和感
空飛ぶ引きこもりライターの千聖(ちさと)です。
いろんな場面で、よく使われる「本音と建前」ということば。
特に、日本人ってこういう感じ、本音と建前で生きてるよね~と揶揄されるようなことが多くある感じがしています。
「建前」は、社交辞令みたいな感じで、そうはほんとは思ってないけれど、表面上とりつくろうような感じ。
それに対して「本音」、というと、本当の気持ち、ですが、その本音はたとえば、
「ほんとはあいつのこと嫌いなんだよねー」
みたいな感じの感覚、悪い意味として使われる、裏がある、という感じの本当の気持ち、という意味の感覚があるな、と。
建前が悪い意味としてとらえられることが多いのは分かるけれど、本音でさえも、揶揄されるくらいなので、悪い意味として使われていて・・・
だとしたら、それだと、なんていうか、世界は裏があって、ドロドロしてて、良い人そうに見えても、裏で何言ってるか分からない、誰もかれも信用できないような。
そういう世界のような感じがして、本音と建前、ということばがすごくもやもやで、違和感でした。
それに対してある日、山籠もり先生竹川さんが、
「本音と建前と言いますが、本音は本当の気持ちじゃないですよね。
その先に魂からの言葉みたいな、もっと本当の気持ちがいる」
と言ったのです。
これで私は、長年のもやもやが、解消されました。
そうか・・・!
本音は、本当の気持ちじゃなかったんだ、さらに奥にまだいたんだ!!と。
それを感じたときに、この世界の見方が変わりました。
人間には、心と魂がある
例えば、 浮気心、とか、乙女心、とか言いますが、そういうふうにつく「心」ってなんか、ふわふわしてたり、うつろいやすいものの代名詞ですよね。
一方で、一球入魂とか、魂を込めた仕事とか、職人魂みたいな感じで使われたりするように、「魂」は、もっとこう、軸があって、一貫していて、志ある生き方のような。サムライ魂みたいな。
そういう感じの感覚だなあと。
山籠もり竹川さんは、本音=「心」
さらにその本音の奥にあるもの、本心みたいなもの=「魂」
と表現し、わかりやすく2つに分けてくれました。
この感覚で普段の自分を見ていったとき、私はあることに気が付きます。
例えば、親に対しての気持ち
私は父に、ずっと好きな事を仕事にする、という生き方を反対されてきて、「安定・我慢」で生きろ、会社で辛いことがあっても、「とりあえず3年は我慢しろ」
ということを、3年がくるたびに、毎回「3年は我慢しろ」というような感じで、結局ずっと我慢しろってことなんじゃないか、と、そういう父がすごく嫌で、父に反抗していて、父のことが嫌いでした。
ともすれば、子どもの夢を握りつぶすくらいの感覚で、あの親父のわからずや!!!頑固おやじ!!!みたいな感じで、父に反発してばかり。
そんな父は母とも離婚。
もともと、母と子供たちは仲が良かったものの、父との間に会話がなかった私たちは、
父 / 私たち(3人の子供)
という感じで全く別みたいな感じで、溝ができてしまいました。
だけど毎年実家には帰った方がいいからと、それこそ本音と建前のような感じで父と接していて、いつしか父にはもう、理解なんてしてもらえることはないから、父に反対されそうなことをするときは、父には話さない、秘密にしておく。
というような状態で、私の弟妹も、兄弟間では共有しても父には話さない、ということがほとんどでした。
だけれどもある日、大喧嘩した時があって、それをきっかけに、父の価値観を色々深く聴くことになったことがありました。
そこで出てきた話が、父の父は自殺していて、父の母はそれを機に自由奔放に、子供の父を置いて出て行ってしまった話でした。
父の父は病死だと聞かされていたので、この話には、本当にびっくりして…
それと同時に父の視点では、
父の父は、かわいがられすぎ、甘やかされすぎて
忍耐力がなく、自殺という道しか選べなかったと
そして父の母は、自由意志で生きて子供をないがしろにした。
という見立てでした。
そこから、父は忍耐や我慢することの大切さや、自由意志はダメだという価値観を形成していったのだ、と気づきました。
だから、好きなことよりも安定や我慢を、
子供である私たちに教えていたし、自由意志で生きたかった母と合わなくなってしまったのだと気づきました。
それに気づいた瞬間、父が本当に、私たちの幸せを願ってくれていたんだな、ということに気付けたのです。
そこまで気づいて、私が父に対して、頑固おやじ!!とか、反発していたのは、本当は、父に認めてもらいたかったし、好きでいてもらいたかったからだったのだ・・・と。
我慢することや、自由意志の否定は、私たちにはとても辛く、時に私たちのこと何も考えてないとか、幸せを邪魔しようとしてるくらいに感じられることもありました。
だから、むしろ嫌われているのではないか、と想うこともありました。
でもそうじゃない、父は父なりに悩み、苦しんで、葛藤して、そして出した父なりの答えで、私たちが幸せになるようにずっと願ってくれていたのだと。
それが父の魂であり、
私の魂だったのです。
心は時に真逆なことも言う
時に、好きな人に対して、別に好きじゃない。
と言ったり、好きすぎるがゆえに、嫌われるくらいなら、自分から身を引いた方が、傷つかなくてすむ。そんな感覚で、好きな人を嫌いにしてしまうこともある。
流動的で、感情に流されやすく、うつろいやすい心。
突然爆発して、怒りにまかせて、想ってもいないことも言ってしまうこともある。
でも「魂」という概念を知ったことで、それが人間の本質じゃないよ、というのも感じる事が出来るようになりました。
本音と建前しかない世の中だったなら、確かにこの世界は、うわべだけで、人の顔色ばかりうかがって、思ってもいないことばかり口にして、醜い世界に見えていました。
だけれども、自分もそう、本当はそんなこと思ってない。
父のこと大嫌いで、あんなふうな父みたいになりたくない。と言いながら
その言葉の本当の奥にあったものは、小さな子供みたいなことば
「お父さんに認められたい」「愛されたい」
そんな、星の欠片のような、魔法のような、宝物のような言葉だったのです。
そういう魂が、人間だれしもあり、本音でも建前でもない、さらにその奥に、本当にこうありたい、という自分が眠っている。
だから、きっと、受け継がれてきた日本語は、心と魂を使い分けてきたのだと。
そして、そこの魂の自分の声まで聴き切ったとき、不思議と、ドロドロしたような、嫉妬や憎悪や、持っていたらダメだと思うような感情でさえも、これがあるおかげで。
と感じられるような感覚になりました。
私も父に対して、反発の気持ちがあったからこそ、父のことが大好きなんだ、という自分に気付くことができました。
それは、健康の有難さを、病気になったときに感じる、というようなものかもしれません。
心が激しく動き、どうしようもなく引っ張られるからこそ
その向こうにある本当の自分に気付くことが出来る。本当の魂の感覚や気持ちのありかを知ることができる。
だからこそ、心も汚いものでもなく、お蔭様で、という存在。
ネガティブに見えることも、この感情があるから自分って醜いと思うことも、それがあるからこそ、本当のこうありたい、自分はこういうふうに生きたい。
そんな自分に気付くことができる。
だから竹川さんは、いつも、「ネガティブは魅力」「どん底にこそ泉あり」と言っています。
そして建前も、たとえば京都の人は、早く帰って欲しい時にぶぶ漬けを出す、と言われていますが、ダイレクトに帰れなんていわれたら、やっぱり傷付きますよね。
激しく批判したり傷つけあったりしなくてすむように。
相手のことを尊重しながらも、自分も我慢したりしないような在り方。
それを、「建前」と呼ぶのかもしれない。
だからこそ、本音(心)も建前も、そしてさらにその奥にある魂も。
全部があって、美しいと想い、本音と建前という言葉を聴いても、もう、私はただ、にやりとするばかりなのです。
そんな気付きがあったことばでした。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
自分にしかできない魔法を探しに
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