人は生きたいようには生きられないのか~葬送のフリーレン勇者の剣からの気づきより
空飛ぶ引きこもりライターの千聖(ちさと)です。
いつもありがとうございます。
読者さんから、「人は生きたいようには生きられないのでしょうか」というご質問をいただき、とても深いし、大事なご質問だなと思って、ただ、それをどうお伝えするとよいだろうか・・・というのが言葉としてまとまりませんでした。
私の答えは、決まっています。「人は、生きたいように生きられる」です。
どんな過去があっても、どんな環境下に置かれていようとも。それは、どんな時であっても、世界が絶望にまみれていてさえも、誰もが無理だという中でも出来ると、お伝えし続けていく人になっていくことが、私が人生をかけてやっていきたいことです。かつて、私が、小説家なんて無理だ。好きな仕事で生きていくなんて無理だ。
という灰色の世界から、好きな事やりましょうです。そう言ってくれたひとがいたからこそ、人生が変わったから。
私は、どんな時でも生きたいように生きられる、本当に生きたい生き方ができるとお伝えします。
ただ、でも・・・というのも続きます。
この部分を含めて全体をどうお伝えしようか、というのがなかなかまとまらなくてうーんとなっていたのですが、アニメ・葬送のフリーレンを見て、ようやく私のお伝えしたいことがまとまったので、この場にてお伝えします。
もしも、神さまに選ばれた人じゃなかったら
葬送のフリーレンは、勇者パーティーにいたフリーレンというエルフの魔法使いが、魔王を倒した勇者ヒンメルたちの死後、その旅路のあとをたどっていく物語です。
魔王を討伐する前のこと、勇者ヒンメルは、誰にも抜けない勇者の剣と出会います。
その剣を抜くことができたものが、魔王を倒し世界に平和をもたらすと言われていました。
魔王討伐の旅に出ていたヒンメルもその剣を抜こうと挑戦します。
ところが、ヒンメルは勇者の剣を抜けませんでした。
ヒンメルは神に選ばれた勇者ではなかったのです。
そこでその剣を抜けなかった多くのものが、諦めていったことでしょう。自分には、魔王を倒す力がないのだと。
選ばれたものではないのだと。
ところが、勇者ヒンメルはこういいます。
「いいじゃないか、偽物の勇者で。僕は魔王を倒して世界の平和を取り戻す。そうすれば、偽物だろうが本物だろうが関係ない」
葬送のフリーレン 本物の剣より
ああ、この考え方好きだなあ~と思いました。
それと同時に、自分の人生を生きたいように生きる、というのはこういうことだとも想います。
あらかじめ定められた宿命だったり、運命だったり、そんなものがあったとしても、それでも自分はこう生きたいと想い、その道に踏み出していく。
たとえ自分にその力がないと思ったとしても、それでも、なぜならそれは自分が生きたい生き方だから・・・と。
だから、結果、それはかたちとなり、生きたいように生きられると考えます。
時に、手段は異なるかたちになることもあっても。例えば野球選手になりたいとなって、そのままプロ野球選手になれる人もいれば、なれない人もいる。小説家も、売れる小説家もいれば売れない小説家もいる。私が学びお届けしている未来型の場でも、最初はブログで独立することを目指していたのだけれども、そのやりたいことがそのままできる会社と出会って、会社員で好きな事を仕事にされている方もいらっしゃいます。
私自身も小説家を目指していたけれども、実は編集者の方がやりがいがあったと気付いたとか、そういう紆余曲折もあります。
だから、手段ではなくって、もっともっとその先にある、本当にやりたいというような想いのほう、その想いはかならず叶うと、たくさんのお客さんの人生と関わらせていただいて、感じています。
でもそれと同時に、想うこと
でも同時にこのころ、進撃の巨人のラストを見ていて、いくら自分がこういうふうにしたい、と思っても、それは、誰かを殺したり虐げたりして、得るものではないよな、というのを強烈に感じました。
本気でお金が欲しくてお金だけを望むのならば、もっとも適した手段は詐欺師になることだと思います。詐欺師がどういうテクニックを使っているのか、どうして人は騙されるのか、そういう研究をした人もいて、それは解明されており、そういう扇動的なライティングテクニックも確かに存在します。
私が最初に出会ったブログ発信者のひとは、自由を説きました。リタイア的な感じでの自由で、自動収入を得て、あとは何もお金の心配もせず、海が見える場所でのんびり暮らすようなそんな生き方で。
そういうくらいになれば、なんでもやりたいことができる。好きな事が何でも我慢せずできる。そのためにはお金が必要で、そのためには人の心を動かすライティングを学ぶことが必要だ、と。それはかつてヒトラーも使ったもので、その力は、人々を扇動し殺しに駆り立てるくらいのものなんだと。
それを使えばどんなものでも、購入してもらうことなんて簡単だよ、と言いました。
確かに私も自由になりたかったです。
会社という縛られたところで、毎日毎日通勤電車につめこまれて、毎日毎日同じ時間決められた時間で働く、その生活は奴隷だよ、とその人は言いました。確かにそうだと思った、私も奴隷から解放されたいって思った。だからそういうライティングを学ぶことも必要なんじゃないか、そう思って、一度はその人の教材を買いました。
だけど、その内容を見るたびに、これで進めていっていいんだろうか・・・
という気持ちが強くなっていきました。
扇動ということばにも、お客さんをターゲットやリストと言ったりする言葉も、全てはなんだか、まるで遊びで狩りを楽しむかのようなそんな感覚で。人を人とも思ってないし、命を命だとも思ってなくて、手段はまっとうに見えるのだけれども、詐欺師になっていくような感じでした。
私は詐欺の片棒を担ぐのか、
それでいいのか、それしか方法はないのだろうか。
それが、自由になる方法なんだろうか・・・
それがこのブログの世界だとしたら、私はもう・・・
そう思って諦めそうになっていたとき、出会ったのが、今の先生、山に籠っている竹川さんだったのです。
竹川さんの考え方は、和を以って貴しとなす。聖徳太子の考え方でした。
仕事とは、
嫌々ながら我慢するのではない。
そして、相手にも我慢を強いるのではない。
でもまごころこめたおもてなしで、お互いに、幸せになっていくことですよ、と。
それが好きなことを仕事にすることで、そして、生涯現役で一生磨き続けていきたいと思うくらいのものを、仕事にすることなのだと。
その時、言語化できなかったけれども、本当に私が望んでいた「自由」の在り方に気づいた気がします。
人によっていろんな自由があっていいけれども、私が好きな自由は、好き勝手やることではない。自分だけが幸せになることではない。
自分の本当の自由な気持ちが、誰かのためになるような、そんな、温かさが広がっていくようなもの。
自分が心の底からこれを書きたい・・・!!そう思って書いた文章が、誰かの人生をより良い方向に変えることができる。そういう仕事がしたい。
かつて私の被害者意識にまみれていた人生を、変えてくれた一冊の小説のように。
それは、一生やっていきたいこと。産みの苦しみ、書く苦しみも含めて、それが出来る人生なんてめちゃくちゃやりがいがあるじゃないですか・・・!!
そういう自由がいいな、と思って、それをまさに体現し生きていた竹川さんから学ぶことを決めました。
父が、やりたいことをやる人生を嫌っていて、子どもである私たちにもよく、我慢が大事だ、仕事とは我慢の対価だ、ということを言っていて、小説家になりたかった私は、ほんとにその言葉がすごく嫌いで、お父さんは私の幸せなんてどうでもいいんだろうな、子どもたちを押さえつけたいだけなんじゃないか、と思っていたくらいでした。
だけれども、昨年聴いて驚愕したのですが、その考え方だったのは、父の父が自殺したからだったのだと。(それまで病死だと聞かされていました)
父の父は、甘やかされて、なんでもやっていいよ~という感じで自由に育てられた、その結果、少しの挫折が耐えられなくて自殺したのだという父の見立てでした。
そして、父の母も、自由奔放に、じゃあ、といって息子である父を置いて、出て行ってしまい、父の祖母に育てられたのだと。
そういう背景を聴き、父が自由を嫌う理由が、よくわかったのですね。
わかる、その自由は、私も嫌だ。なんでもかんでもやっていいのが自由ではない。
本当の自由は自由であり、不自由だと思う。
私はハンググライダーで空を飛んでいて、空を飛ぶように・・・は自由の代名詞ですが、実際に空を飛んでみると、自由に空を飛ぶのは、自由だけど不自由さも同居しているとすごく感じました。どこに飛んでいくかは自分で選択できるけれども、どこまで飛んでいけるかは、日々めんどくさい泥臭い練習があってこそだし、恐怖もリスクもある、その時の環境、タイミング、風次第の時の運もある。
でもそれらも含めて自分で選び飛んでいける自由、その選ぶ面白さと苦しさと悔しさと、そしてその先にある、言葉にならないくらいのやりがいと感動に出会える。
そういう感覚が本当の自由で、そして昔の日本人は生涯現役の人が多かったと。だからもともと働くのが好きで、リタイア的な考え方は日本にはなかった、と。
実際に、休みがいっぱいありすぎると、だんだん飽きてくる、そろそろ、働くか・・・という気持ちになりますよね。私も現実逃避に無職時代をむさぼっていたときもありましたが、1ヵ月くらいすると、なにやってんだろ自分、みんな今頃働いているのに・・・私は何もしてない。社会に何の貢献もできてない。と思い始めました。
もちろんその頃はお金がなかったから、早くなんとかしなければ!というのもあったのですが、定年退職し、ずーっとなにもやることがなくなったご高齢の方は、認知症になりやすいのも前の会社で見てきました。ほんとに、仕事がなくなると、人は生きる気力を失う。
だけど、それが、今の社会の多くの場合のように、嫌な仕事をやらないといけないとなっているので、ややこしいことになっていると思います。
嫌なことのために頑張れと言われてもそのための修行は嫌じゃないですか・・・!
会社で嫌々研修に行かされたものとか全然内容覚えてません・・・!そのために頑張れ!!と言われても、私は2年しか続きませんでした・・・それは、コツコツの方向性を変えてもいいと想います。
だから、生涯現役くらいでもやりたいと想えるくらいの好きなことだったり、やりがいを感じられる仕事をすること。
それが、本当の自由なんだと想います。
そしてそういう自由を歩んでいくとき、不思議なことがいっぱい起こるのも体感してきました。まるで追い風が吹いたように、道がひらけていくような。絶対に無理だと思っていたことが、いつの間にかえ!!こういう方向から・・・!?と驚くようなことがあって、想いはかならず叶うんだなと毎回想わされます。
そういう意味で、人は生きたいようには生きられる。
自分も我慢しないけれども周りの人にも幸せをお届けできる。そういう生き方なら、生きたいように生きられる。
それが私の答えでした。
この答えがあなたの本当の人生を、歩んでいくなにかの道標になりましたら幸いです。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
自分にしかできない魔法を探しに
コメント
- トラックバックは利用できません。
- コメント (0)
この記事へのコメントはありません。