すずめの戸締まりのタイムパラドックスから考察する新海監督が伝えたかったこと
空飛ぶ引きこもりライターの千聖(ちさと)です!
すずめの戸締まりのラストは、
私はこのタイムパラドックスの考え方がめちゃくちゃ好きでして、
考えるほどのにわからなくなっていく答えが出ないこの感覚が面白
伝えたかったことはなにか、そこから私たちが学び、
というテーマで私なりの考察を書いてみたいと想います。
下記ネタバレを含みます。
まだ見られていないときはぜひ映画を見てから続きを見ていただけ
すずめの戸締まりのタイムパラドックスを振り返る
まず、
だけれども、どこかで脚が一本なくなった状態で見つけ、
その椅子に草太が閉じ込められてしまうのですが、
うしろ戸の中にいた、震災でいなくなったお母さんを探していた、
そして過去に帰っていく幼い鈴芽。
幼いころの鈴芽は、手渡してくれた人を、
実は、成長した自分自身だったのです。
ここにタイムパラドックスが発生します。
高校生になった鈴芽が椅子を持っていたのは、幼い頃の鈴芽が、
だけど、なくした椅子を持っていたは、
今の鈴芽の椅子は過去に見つけたものなのに
その過去の椅子は、
鶏が先か卵が先かみたいな話で
あれ??どういうこと??となって面白いのですが…
新海監督は、なぜこのラストにしたのでしょうか?
私はこのラストにものすごく感動したのですが、それはある、
時は未来から過去に流れる。
時間って、過去から未来に向けて流れていく、
過去にこういうことがあったから、
この考え方でいくと、時間の概念はわかりやすいものの、
未来も絶望的なものになってしまいます。
いじめがあった
家庭環境が悪かった
大切な人が亡くなってしまった
どれも過去に起きたもので、どうしようもなく変えられないもの。
だから、○○があったから、幸せになることができない、
震災を経て、
でも、
「時間は未来から過去に向けて流れますよね」
と。
え?!?!!?
と、
でも、手帳とかもそうですよね、と。
手帳に、未来の予定を今日書く。
それが、未来から流れてきて、今日になってその予定が始まる。
だから、時は未来から過去に向けて流れる。
これが、新海監督が伝えたかったことなのではないかな・・・と私は、想ったのです。
どんなに絶望的な状況であっても、いつだって
未来は希望に満ちている。過去にどんなことがあっても、未来はいつだって自分が作っていけるのだと。
それを忘れないで欲しいと。
そんなことを伝えたかったのではないかと想うのです。
過去から未来へ流れる、となると、過去のあの絶望の出来事があったから、未来もこういうふうに絶望なんだ、となりがちです。
今は過去の積み重ねだったなら、積み重ねてきてしまったもう戻せないものたちの先には、絶望しかない。
そうしたら、理不尽な過去も、どうしようもない過去も、自分の力ではもう、変えていけない未来になる。
でも、未来から過去に向けて時は流れるのだとしたら。
未来が先だから、過去がどうであれ、未来がどうなるかは自分で決めていいのです。
私も、母が宗教にハマって行方不明になったこと、それは変えることができない過去です。
会うことも、もうできないかもしれない。
それでも、だから母がいなかったから、私は不幸になる、ということは言えない。
それよりもむしろ、母があの時、宗教にハマることになった生き方だったり考え方の道ではない道、反面教師かもしれないけれども、そこから教えてもらったことを、私が活かし幸せになったら。
母のあの宗教のことも、あのおかげで、となって過去の見立てが変わります。
実際に私も、ずっと諦めていた、夢だと思っていた文章を書く仕事を今、させていただいていますが、それも、母のことがあったからでした。
ずっと安定で、普通に、諦めてレールの上で生きる生き方をしようとしていた私に、母は、自分が好きな事ができず、たくさんたくさん我慢して、宗教にハマるというみちをもって、好きな事を仕事にして生きていくことの大切さ、尊さ、それによって周りの人も幸せにできるということを教えてくれました。
母は、鈴芽の親代わりの、環さんみたいな人です。
しかも私は宮崎の生まれなので、あの環さんの話し方が、本当に、母のことを想い出して仕方なくて。
環さんみたいに自分を犠牲にして、人の為に頑張って頑張って頑張って、自分の幸せは二の次で、子どもたちがありのままで生きていけるように、父を説得してくれる本当に素敵なお母さん。
その母が、包丁を持ってお金をせびる人に変わるなんて、想像することができなかったくらいの人。
だから、環さんが本当の想いと裏腹に、あの毒のような言葉を吐き出す気持ちは痛いほどわかったし、人間はきっと、うしろ戸のようなものを、誰しも背負いながら生きているものでもあるのだとも想いました。
でも、それを闇の様に吐き出しながら生きるか、それとも、出てきた後ろ戸のような暗い過去も苦しかったことも辛かったこともそれを未来に行く鍵として閉じ、本当に生きたかった未来に行くのか。
未来は自分で決めていい。
そして、本当に生きたかった未来を描きそこにたどり着いたとき、母との辛い想いでも苦しいことも、悲しいことも、あのおかげで、と、過去が変わるような想いでもありました。
いつでも自分を救えるのは自分
もうひとつ、想いが込められていると感じたのが、過去の鈴芽を救ったのが、未来の鈴芽だった、という表現です。
こういうのって普通、お母さんが助けてくれた、というような感じになった方が、親子の絆というような描き方ができて、感動的な終わり方になるような感じもしますよね。
実際にそういうふうに描かれている物語はたくさんある。
でも、あえてそれをしなかった。
あえて、タイムパラドックスになろうとも、それでも過去の鈴芽に生きる希望を届けたのは、未来の鈴芽だった、としたのは。
それは、自分を助けることができるのは、自分なんだよ、というのを、伝えたかったのではないかとも想いました。
時に、苦しい時は、誰かにすがりたくなる。
誰かに助けてほしくなる。
もちろん、助けを求めることは大切、人はひとりでは生きられない。スーパーに買い物に行くのでさえも、そこに並んだ食材を届けてくれる人たち、売ってくれる人たちがいるからこそ買える。
電気も水も、住んでいる家も、どれひとつとして私は自分では作れない。
だから誰かに助けを求めたり、誰かの力を借りて生きていくことはとても大切で。
でも、最後の最後、どの道に生きていこうか。
どう生きていこうか、どうありたいのか、決めることができるのは、常に自分なんだと。
時に引っ張られることもある、こうやって生きたほうがいいんじゃない?こうするべき。あなたはこうしなさい!!
そんな言葉を投げかけられるときもある。
ああしたほうがいいんじゃないかな。と、ぐらぐらするときもある。
でも、最後選ぶのは、「私はこうしたい」
そうやって生きていいのだと、常に自分の道を決められるのは、自分なんだと。
誰かに決めてもらう人生は楽だったけれど、普通で生きていれば、何かがあったとき、誰かのせいにできるから。
でも、色んな苦難や困難があるこの世界。
何を選んでも苦難があるのなら、心を殺して生きるより、本当にやってみたかったことに、踏み出していく人生の方がきっと、何倍も美しい。
草太と出会うことができた鈴芽のように。
その手で世界を救うことができるような、そんな冒険に出ることができたような。
一歩でも、本当の生きたかった自分の生き方に、自分の足で、踏み出してみたなら、そこから、本当に魔法が使える世界に飛び出したかのような、非日常の世界が始まっていくことも体感しました。
魔法の世界がこの世界にないと思うと、どこにも行けない閉塞感で苦しい気持ちもあったけれども、未来を自分で決め、自分の意志で決めて歩き出す世界は、どこかにうしろ戸が見えるようになるくらいの世界。
あなたがいつでも、あなたの物語の主人公。
だからこそ、時は未来から過去に向けて流れる、そんな感覚で、未来を選んでいってほしい。
そんな願いを込めた物語だったと、私は感じました。
本当に久しぶりに見に行った映画で、こんなに素敵な物語に出会えて本当に感動でした。
9月20日から、「おかえり上映」ももうすぐあるみたいなので、また見に行ってみたいと想います。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
自分にしかできない魔法を探しに
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