自分の幸せを願う、ということへの罪悪感【徒然日記】

空飛ぶ引きこもり小説家、千聖(ちさと)です。
あなたは、神社にお参りにいくときに、何を祈りますか。
私は、高校生のころ、大宰府に、合格祈願に行きました。
だけれども、結果は不合格。行きたかった大学だけではなくて、すべり止めも含めて、全ての大学に落ちました。だから、一浪せざるを得なかった。
その経験から、神様に願っても何も叶えてくれない。
けっきょくは、自分でやるしかないんだ、というのを感じて、覚悟が決まった・・・ということがありました。
そして、その出来事があったから、高校三年生では、あまりに無謀すぎて、受験の選択肢に入れることすらできなかった京都の大学を、浪人生では目指すことができ、無事にそこに合格しました。
京都は私にとって人生の大きな分岐点だったので、京都に行くために、あの一浪があったんだと思ったら、あの時すべての大学に落ちてよかったな、といまではしみじみ思います。
でも、ただ、それは神様が叶えてくれるためのものではなくて、自分自身がそこに向かうためのもの。
だから、私の神社へのお祈りの仕方は、自分への宣言・・・約束をするために行く、みたいな感じになっています。
そして今年は、家にも好きな神社のちいさな神棚を作って、毎日お祈りするようになったけれど・・・
でも、それをやっていたら、ふと気づいた・・・
お祈りするときに、私、自分のことを願うことに対して、罪悪感を持っている・・・ということを。
きっかけは、あるひとこと・・・
娘がある日、大好きな人の名前を、ひとりひとりあげていく、ということをやっていて、そのときに、娘が、ちゃっかり自分の名前も入れていたのですね。
それで、やって欲しいと言われたので、私もひとりひとりあげていったけれど、「自分のことを言い忘れているよ?」と娘が言ってきて・・・・
これが、あとから、すごくじわじわきて・・・
自分のことを、大好きのなかに、入れてあげていいはずだったのに。
別に私はいま、自分のことを嫌いじゃない。
悩む日も、つらい日も、死んでいるような日も含めて。
未来型と出会って、素敵な方々と出会うことができ、それを振り返ってゆくと、私は私のことを嫌いだと定義するほうが、失礼だと思った。
だから、言うことに対して躊躇する理由はない。
でも、自分を大好きな人の名前のなかにふくめる、という発想がなかった、と気付いたのですね。
そういうことがあって、毎日のお祈り・・・
家族のこと、誰かのこと、それは願うけれども、自分のことを願おうとすると、なんていうか、そんなことをすると、幸せが逃げてしまう、みたいな感覚になって、願うのを躊躇している、と気付いた。
人のことだけを願うというと、利他的にきこえるかもしれないけれど、私にとっては、「人のことを優先することのほうが、利己的な感覚」なのです。
これは、未来型で自己探求を深めていくなかで、そういう気質を持つタイプの人がいる、と気付いて、まさにこれ私だ・・・と認識してから分かったことですが・・・
だから、そういう気質の場合は、自分の幸せを願わない、私は助けを受けていい人ではないので、そう思うことのほうが、逆にエゴ、みたいな感じなのですね。
偽善ということばに近いと思う。
でも、それはそう、誰の助けも受けないで生きているひとなんていない。
毎日のご飯も、スーパーに並ぶ前に、本当にたくさんの人の手を通して、届いている。
人だけじゃなくて、自然も。
飲むことが出来る水も、地球から、助けをいただいている。
だから、誰からの助けも受けてはいけない、っていうのは、逆に驕りなんだなあ、と気付いて、なんかそれは、すごく、いい意味で楽になった、肩の力が抜けたような感覚でした。
だから、少しずつ、
ちょっと、怖いけど、毎日のお祈りに、自分のことも願ってみることにしました。
家族のこと、誰かのこと、そして、自分のこと。
それを毎日やると、おいおい、そんなに毎日言って大丈夫か??どんだけ願うんだよ、欲張りすぎてない??
みたいなことを言ってくる自分もいるけれど・・・
でも、そういう自分も、居ていいよとなっていくと、少しずつ、そのキャラも、リラックスしてきたように思います。
まだまだ私も練習中。
でも、家族の名前を呼ぶように、
誰かの幸せを願うように、
自分の名前も、
そこに一緒に置いてあげていい。
そんなことを、考えている、今日のお祈りでした。
お読みいただき、ありがとうございます。
千聖

心の奥の灯りをそっと想い出す、小さな隠れ家。

もう同じ生き方ではいられない… そう静かに感じはじめているあなたへ
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