夢を叶える・引き寄せる人の習慣 ~本物の信・心を開くとはどういうことか 新潟引きこもり③
空飛ぶ引きこもりライターの千聖(ちさと)です!
私も人の人生に携わるお仕事をさせていただいて、おかげさまでたくさんの方に出会ってきました。その中で、夢を叶える前触れに、いつも試練として、出てくる、とあることがあるな・・・ということに気づきました。
それが、先月新潟で行われたワークショップで、山籠もり先生、竹川さんが話してくださった「信は義のもとなり」という話からの「心を開く」ということでした。
夢を叶える時とそうではないとき
信は義のもとなり、というのは、聖徳太子が作った十七条憲法の中にある考え方です。
何事においても、道を極めたり、自分の道に進んでいくとき、本当にやりたかったことをやるためには、「信じる」ということがないとうまくいかない、というような考え方です。
信じる、という言葉もまた、わかりやすいようで、深く難しいのですが、たしかに、本当にやりたいことをやるとき、それはまだ、かつて実現したことがない道をいくものだから、その先に行けるというのを「信じる」ということがなければ、進めないように思います。
なので確かにそうかな、という感じがするのですが、でも、私は以前からこの話を聴いていたのですが、どうにも、わかるような、わからないような、そんなもやもやした気持ちが残っていました。
それは例えるなら、自分を大事にしてください。と言われて、それはそうだ、と思う、大事にした方がいいと思う。でもそれは何の解決にもならない。
と思っているような感じ・・・
その言葉の大切さだったり、その行動の良さは分かっているつもりだけれども、それが現実世界を変えることに役立つなんて思えないという感じ、頭で理解はしているけれども、腑に落ちない感じ。
じゃあどうすれば自分を大事に出来るんだろう。そんなことを問うても答えが出ないような、そういう感じ・・・
そういう感じを、「何事も信じることが大事なんだよ」という言葉からも、感じていました。
そしてもうひとつ、違和感があって、出会う方々でも、夢を叶えられるときも、叶えられないときも、本当はみんな信じてる。
誰しも、人のことを疑いたいわけでもないし、誰かをおしのけたいわけでもなくて、私も出会った方々は、本当に温かくてやさしくて、誰かのために一生懸命になれる人。
見返りを求めてしまうこともあるし、承認されたくて、愛されたいとエゴが出る時もある。
だけど、それほどまでに、誰かのために尽くしたり、頑張ったりしたからこそ、承認欲求の気持ちも出る。だから、一生懸命で、そんな過去に対して、信じてないから、夢叶わないんだと、そんなことは口が裂けても言えないし、そんな残酷な世界だとも私は想わない。
でも、確かに感じる、夢を叶えられる時と、そうではないときの、「信」。その間の溝に、いったいなにがあるんだろう。それが私は、ずっと知りたかったのです。
それを理解することができれば、過去にどんなことがあろうとも、変わっていける道標があるような気がしたからです。
変わっていけるみちしるべ
それで「信は義のもとなり」というセミナーを聴いたあと、竹川さんと色々話していて、たどり着いたのが、「信じる深みが違う」ということでした。
夢を叶える時の「信」は、
「たとえこれをやってうまくいかなかったとしても、裏切られたとしても、それでも後悔しない」
と思えるくらいの深みがある、ということでした。
それで想い出したのが、私の人生のバイブルでもある、十二国記のお話です。
主人公の陽子は、色々な不幸なことや理不尽なことにまきこまれ、「なんで私がこんな目に・・・」「なんで私だけが」「なんで私ばっかり」と、理不尽さを恨んでいました。
あいつのせいで、環境のせいで、こうなった。私のせいじゃない。
言い訳ばかり、被害者意識で、悲劇のヒロインで生きていました。
損をするか得をするか。
そういう判断で生きていて、そして実際に、そういう生き方をしていたとき、世界はそういう世界で、人に得があると思われれば利用され、何の利用価値もないと思われたら、裏切られ、遊郭に売り飛ばされるようなそんな世界でした。
だけれども、ある日、損得勘定を超えた生き方をしている人と出会います。
その人は、差別を受けていきていたけれど、その差別に対して、理不尽さを嘆きながら生きていなかった。その中でも自分らしく生きられる行き方を探し懸命に生きていた人でした。
陽子に対しても、無条件で手を差し伸べるような優しい心根の人。
徐々にその人との時間に癒されていく陽子でしたが、あるとき、獣におそわれ、逃げる時に、その優しい人を見捨てて逃げてしまいます。
損得勘定で考えたら、見捨てるのがいちばん。また裏切られるかもしれないし、助けたってなんの得にもならない。
そう考える自分が出てきて、見捨ててしまい・・・
でも、その時、決断したのが、やっぱり戻って助けよう。
という気持ちでした。
その時のやりとりです。
「卑怯になったが勝ちサァ。ここは鬼の国だからなァ。お前に誰も親切にしたりしないんだぜ。親切な人間なんか、いないんだからヨォ」
「そんなの、わたしに関係ない!」
追い詰められて誰も親切にしてくれないから、だから人を拒絶していいのか。善意を示してくれた相手を見捨てることの理由になるのか。絶対の善意でなければ、信じることができないのか。人からこれ以上ないほど優しくされるのでなければ、人に優しくすることができないのか。
「・・・そうじゃないだろう」
陽子自身が人を信じることと、人が陽子を裏切ることは何の関係もないはずだ。陽子自身が優しいことと他者が陽子に優しいことは、何の関係もないはずなのに。
「小野不由美 『十二国記 月の影 影の海(下)』より」
世界も他人も関係がない。胸を張って生きることができるように、強くなりたい。
「小野不由美 『十二国記 月の影 影の海(下)』より」
私はこの場面で、自分のほおをぱちーんと殴られたような気がしました。
なぜなら、私も、まさに言い訳ばかりしていた陽子みたいに、生きていたからです。
あいつが悪い、環境が悪い、私がこうなったのはみんなのせい。
そう思って生きてきた。
だけど、違うなって、誰かに優しくされるから、誰かに優しくするとか、誰かに認められるから、認めるとか、誰かを信じられるから、信じるとか、そうじゃないんだと。
世界も他人も関係なくて、ただ、自分が信じたいから、信じる。
裏切られることがあったとしても、それでも自分から信じていくこと。こころを開いていくこと。
なんて陽子はかっこいいんだろう。
私もそうなりたい。
そう思ったのが、被害者意識の生き方から脱却しはじめたきっかけでした。
それこそが、「本物の信」だ、と、その過去の気づきと統合して、はっとしました。
そして、自分自身もたしかに、夢を叶えるまえのときのこと。
私のそのときの一番の課題は、自分を正直にさらけ出すのが怖い、ということでした。
ブログで文章を書いて生きていくのであれば、自己開示は必須です。友達になったり、恋人になるときもそうですが、親密になっていくときというのは、自分はこういう人です、ということを相手に伝えることが大事ですよね。
何を考えているかわからなかったり、どんな人なのか知ることができなければ、本当の意味で深い仲になっていくことができない。
だからブログで誰かに読んでいただいたり、ファンになっていただいたりするとき、自分を正直に開示すること、弱いところもみっともないところも情けない、どん底のところも含めて正直に伝えること。
それが大事で、それが伝わったらお客さんが来て下さる、まごころこめたおもてなしだと、竹川さんから常々言われていました。
だけど、私はそれを信じられなかった。
自分のことはとても醜いと思っていて、すぐ人に嫉妬して、才能があるからいいよね、と思っていたり、自分がお金がないから、仲介とかの手数料で、誰かが自分の購入したお金の一部で儲けることに対してすごい嫌悪感までありました。
自分は特に損をしたりしないにもかかわらず、そういう考え方だったので、だけど一方で自分は、ブログでそういう仲介的なお仕事をしてお金をいただこうとしている・・・
矛盾している、そういうのがすごい醜いと思って、自分のことが大嫌いでした。
まごころこめたおもてなしなんて、こんな自分がやるなんて偽善みたいだとも思いました。
だから、こんな自分のことしか考えてないエゴの塊を自己開示したりなんかしたら、ただでさえいない読者さんが、もう誰もいなくなるのではないか・・・
と思っていました。
そして、竹川さんにもきっと失望されるだろう、そんな人だと思いませんでした、と言われて見捨てられるに違いないと思っていました。
だけど、ある日、もうどうにもこうにも追い詰められた私は、もう嫌われてもいい。
竹川さんに失望されてもいいや。誰もいなくなってもいい。でも正直に言おう・・・
なかばやけくそで、そう思って、ある日、自分は自分のことしか考えてないエゴの塊です、というのを伝えた記事を書きました。
それが、人生が変わった瞬間でした。
その記事を、竹川さんも、竹川さんのもとで一緒に頑張る同期の仲間たちも、その記事がすごく良かった、と言ってくださり、そして、お客さんまでも、「あの記事に共感したので、千聖さんなら信頼できると想って、参加しました」とおっしゃってくださったのです。
その瞬間見える世界が変わりました。
こんな私でさえいいと言って下さる人がいるなんて・・・いままで、人のことをどこか疑い、損得だったり、利害関係でしか人間関係は成り立たないと思っていた。
だから、人に好かれるような八方美人な行動をしてきたり、嘘の笑顔を貼り付けて、思ってもいないことを言ったりしてきた。お世辞や嘘にまみれた生き方でした。人間とは醜くてどうしようもないものだと思っていて人間嫌いでした。
だけど、今まで自分がダメだと思っていたこと、こうじゃなきゃいけないと自分を縛り付けていたこと、そうじゃなければ人に好かれないと思って生きてきた私に、世界はもっと大きく深く、美しいものだったのだと、気付かせてもらった瞬間でもありました。
そこから、まるで生まれ変わったみたいに、竹川さんが言っていた、まごころこめたおもてなし、誰かのために何かをしたい、という気持ちが湧水のように自然と湧き出てきたのを覚えています。
だって、こんな醜い私でさえも、いいと言って下さる方々なんて。神様みたいに見えたのです。
お客様は神様。その本当の意味を知ることになりました。
そんなふうに世界が変わった瞬間。
私の場合は、もういいや!という、やけくそだったから、陽子みたいに、かっこいいものではないのですが、ただ、その時の私の感覚は、「もう嫌われてもいい」というような感覚だったということです。
信じるの深みとは
裏切られない事を信じる
嫌われないということを信じる。
というようなことが、「信じる」ということのような気がしていました。
竹川さんが、私のことをきっと嫌いにならないだろう。それを信じようとしていたのが、世界が変わる前のことでした。
だけど、世界が変わった瞬間にやったのは、たとえ嫌われたとしても、それでもいい。
たとえ裏切られたとしても、それでもいいのだと。
裏切られないことを信じるのではなく、
裏切られたって後悔しないくらいで行動するものこそ、本物の信なのだと。
結婚するときも、この人となら幸せになれると思うから結婚する。
幸せにしてくれるから結婚する。
ではなくて、たとえその人と一緒になって不幸になろうとも、苦しみもがく日々があろうとも、それでもこの人といられるなら後悔しない。
むしろその逆境すらもバネにして、むしろ、私が幸せにする。私が勝手に幸せになる。
それくらいのものが、本物の信。
裏切られることだってあっていいんだと
それすら後悔しないくらいの感覚で、それでも自分の身を世界に、人にあずけてはじめて、みちがひらかれる。
それが、心を開くということ。本当の信じる、ということ。
それが、夢が叶っていくときの大事な習慣だったのでした。
それはとても怖い、自分の境界線がなくなってしまうような、自分が何か世界に飲み込まれて闇にのまれたり、誹謗中傷のなかに投げ出されるような恐怖も出るけれども。
でも、いつかこの人は裏切るのではないか。そんなふうに感じたまま生きるより、裏切られても後悔しない。くらい、信じられる生き方の方がかっこいいし、それくらい想ってくれたなら、逆の立場だったら、それほどなのかと涙が出るくらい嬉しいですよね。
だからこそ、信の深みを、自分から、背中をあずけて、見えた世界はこんなにも美しかったから。
だから怖くても踏み出してみてほしいと、そう想います。
そしてこんなことを言いながら私も、躊躇したり怖くなったり、まだまだだなあと思うこともいっぱいあるので、そういうところにも、これからも磨き挑戦していきたいと想います。
一緒にあなたと、そんな世界を旅していけましたら、とてもとても嬉しく想っています。
いつもありがとうございます。
そんな信は義のもとなり、というセミナーからの気づきでした。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
自分にしかできない魔法を探しに
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