自分の天才性を開花させていくには ~未来型東京セミナーの気づき

空飛ぶ引きこもりライターの千聖(ちさと)です!

東京で未来型セミナーが行われまして、今日はその気づきのひとつ、「自分の天才性を出していくには」というテーマをお伝えして行きます。

天才性を出すには、〇〇性を

自分が天才だったらいいな~って思ったことありませんか。

私はあります。すごく才能に満ち溢れていれば、小説家になれたかもしれないのにな・・・って思ったり、あの人は天才だからいいよねって思ったり。

もうそれは、自分にはないものだと思っていた。だから、いつも、自分に夢を諦めさせる言葉として、使っていたような気がします。

 

だけれども、天才性は誰にでもある、と竹川さんは語りました。

ただ、それは開花していないだけなのだと、天才性というものは、脳で言えば、ひらめきなどをつかさどる、「間脳」の部分が活性化しているときに出てくるものだから・・・

間脳は、誰でも持っているものでもあります。ただし、そこへアクセスしやすい人と、そうじゃない人、というのがあって、それがどうやら、「天才」というものの正体なのだと。

 

これは、実際に京大の脳科学の教授が色んな人の脳波を調べて分かったもので、将棋の羽生さんが、詰将棋で、素晴らしい詰将棋をひらめいたとき、その時の脳波が反応したのが、「間脳」だったことに由来します。

 

じゃあ、間脳によりアクセスするようになれれば、天才的なひらめきだったり、アイディアだったり、柔軟な考え方だったりとかが色々生まれるということになる・・・ということになりますよね。

 

じゃあどうするか・・・それが、「先天的なもの」を磨くだったのです。

先天的なものと後天的なもの

私たちが今まで学校で受けてきた教育たちは、後天的なものがほとんどでした。学校の勉強も記憶したりするものが多かったですが、これは、脳で言えば、「大脳」を磨くような感じの勉強方法だったのですね。

後天的に、生まれてから、身に着けていくようなものに特化して、磨いていく教育方法です。

 

だけれども、これだと大脳へのアクセスは育つのだけれども、間脳へのアクセス力は育たない。

でもそうじゃなくて、先天的なものを磨く。

 

じゃあ先天的なものとはなにか・・・

 

それが、好きなものとか、夢中になれることなのですね。

 

好きなものは後天的に気付いていくという感じがしていたのですが、私もひとりの親になって分かった、

「子どもは、生まれた時から興味を持つものが違う」ということです。

 

たとえば息子は数字が好きですが、それは私が別段教えたものではないです。

むしろ、私は数字が嫌いなので、私が教えるものでもない。夫は好きだけれども夫もそれに対して教える前に、息子はすでに数字に興味を持っていて、足し算とかを楽しんでやっています。

逆に娘は歌うことが好き。0歳のときから、言葉になっていなくてもなにか歌のようなものを歌っていて、今でも歌うことが好きです。

 

あと、食の好き嫌いとかですね。

私は海藻類が嫌いなのですが、娘も息子もなぜかひじきが大好き。

夫も別にひじきが好きというわけでもない・・・

 

お腹の中でのこととか、親の興味とか、環境とか、そういうことだけでは、説明がつかないことが、たくさんあるのです。

 

だから、好きとか嫌いとか、何に夢中になるのか、そういったものは、先天的なものなのだと感じています。

 

そういうのを今は、封印している社会ですよね。

好きな事よりも、レールに乗ること

仕事は我慢の対価であり、

こういう夢があるんだ、と人に語ったら、いつまで子供みたいなこと言ってるの?

と言われるような社会になってる。

 

だけれども、先天的なものをそうやって封印していった先に、今の社会は、失われた30年になっている。

効率や合理的なもののような後天的なものばかりを、重視した社会では、うまくいかなかったのが、失われた30年です。そして、その社会で、人々は幸せに生きられていない。

自殺者は、先進国の中では第一位とされているくらいの、生きづらさを感じている・・・

 

後天的なものもたしかに大事。

でも、それだけじゃなくて、先天的なもの、好きなことや夢中になれることを大切にして、それも、伸ばしていくことを考えてもいいんじゃないか・・・それこそが、ひとりひとりが、天才性を開花させていって、本当にやりたいことをやっていくために大事なことなんじゃないか。

 

そして、大脳的なところへのアクセスは弱いかもしれないけれども、間脳のアクセスが強い人たちのことを、発達障害だったり、病気と定義してしまう社会になっているのではないか・・・

 

そんなお話しだったのです。

 

それと同時に、IQとは何か、

というのを学ぶ機会があって、それによると、知能というのを、何で定義するか、知能とはなにか、というのは、研究でもまだあいまいなものとされているのだということ。

 

でも、「このくらいの年齢ならこれができるというような、統計学的な平均値」

「情報処理能力」をはかっているような感じが、いま使われているIQの算出方法だということを学び、

 

それで、ああそうか、これって、大脳で測っているのではないか・・・

とすごく感じたのですね。

 

それで納得した、確かに、生きづらさを抱える人達は

この未来型の場には、生きづらさを抱える方々が、たくさん来られていて、中には自分のことを、障害者ではないか、病気なのではないか、とおっしゃる方も多くいらっしゃいます。

うつ病を経験されていたり、自閉症や、アスペルガーなど、いろいろなことに対して、障害だったり、病気だったり、自分のことを、ネガティブだととらえていらっしゃる方々。

 

自分は何かおかしいのではないか、ととらえていらっしゃる方々が多いです。

私もそうでした。あまりに生きづらくて、自分だけ、変だと思っていた。好きなことを仕事にすることも含めて、そんなことを考えて、普通に生きられない自分ってほんとになんていうか、非国民なんじゃないかみたいな・・・

それくらい思っていました。

 

でも、竹川さんは、「好きなことを仕事にする生き方の方が自分にとっては当たり前」だったと言いました。

自分はずっとその世界で生きてきたし、そして、江戸時代までの日本はみんな好きなことを仕事にしていて、その仕事に誇りを持った生き方だったのだと教えてくれました。

 

それで、私の息子もIQ的には75と出て、あまり私は頭がいいとか悪いとかの測り方は好きじゃないのですが、なんていうか、それによって、未来の選択肢が狭まるとか、就職先が限られるとか、社会で活躍するとか、そういう数値に反映されるものだとしたら、それは違和感というか・・・

偏差値が高い大学を出ることと、社会で貢献することができる力がイコールではないみたいなくらいの違和感があって。

 

私のまわりには、中卒や高卒で活躍している人たちもたくさんいらっしゃるし、独立していたり、自分のお店を持ったりスーパーアイディアでお仕事をする方々も見てきています。

Appleを作ったスティーブ・ジョブズも高卒です。なので偏差値で何かを考えるのは、あまり好きじゃなくて、そういうのと同じ感じで、IQに対しても違和感でした。

 

でも、たしかに、息子は、人間力は、現段階では、ほとんどないのですね。

たとえば、人の話を聴くとき、人の目を見ないどころか、体の向きもその人と違う方向を向いていて、まるで人をおちょくっているかのような態度なのです笑

それで最初はおちょくってると思って、ちゃんと話聴きなさい!!と怒っていたのですが、でも、よくよく話してみると、どうやら話を聴いていないわけではない、ちゃんと理解してくれているし、それを活かそうともしてくれていて、十回くらい同じことを聴いたりすることもあるけど、理解したときのその応用力の幅がすごい。

数字の話をしながら、図工に活かすみたいな、そういうくらいの面白いアイディアの飛び方や話の聞き方をするなと感じることがあります。

 

ただ、「人間社会的に言えば」態度が人を小ばかにしているように「見える」だけで。

 

一方で、娘の方は、すごい人間力があるのですね。

生まれたときから愛嬌がある感じで、人の注目を自然とあつめ、それに対して笑顔を振りまく、と思えばちょっと小悪魔的にひいてみたり、人に好かれる要素にあふれていると感じる人間力。

発達の検査でも何にも引っかからないような感じで何も心配いりませんね、と言われる。

 

同じ親から生まれたのに、どうしてこうなった?と思うくらい真逆で面白いのですが、

ああ、そうか、息子の場合は、一般的な意味合いでいう、人間力、コミュニケーション力、対・人への接し方の力が、今はまだ、持ってない、それに対して、測るものさしがIQであるのだとしたら、確かにIQは低く出るよな、と感じたのです。

 

いかに「大多数の人間らしく在れるか」どうかで、測るものさし、それがIQなのだとしたら、それで測り、障害や病気のようなかたちで、定義されて、苦しんだり、生きづらさを感じるのだとしたら、それはすごくもったいないんじゃないか、と思ったのです。

 

大多数の人間らしく在れることは、確かに大多数のマジョリティーなので生きやすいかもしれないけれども、これからの世の中にとっていいかどうかはわからないですよね。

ADHDだったとされるアインシュタインだったり、言語障害や知的障害を持っていたとされる山下清とかもそうかもしれないですが、一般的じゃなくはみ出していくような変人変態、それで面白い発明や芸術をのこして、世の中に貢献するかもしれないし、それによって新しい世界を切り拓いていくかもしれない。

 

もちろん、障害や病気として定義されて、生きやすくなる場合もある。

それはすごくいいと想います。定義することで、受けられる支援や制度もあるから、「もし今困っているのだとしたら、障害として定義する」と病院の先生もおっしゃいました。

 

なるほどなあ、と。困ってなければ障害としないのか、と。

元来そういう定義は、生きやすくするためのものであるのだということです。

 

でも、今の風潮はどちらかというと、それが、型にはめるような感じのとらえ方になってる。

こういう障害があるから、こういう生き方しかできませんよ、あなたはダメだからこういうふうに生きるしかない、と言われているようなもやもや感。

そういう美しい凸凹感を、障害として、「普通」というかごの中にいかに当てはめるかを薬でコントロールしたり、病院に閉じ込めてしまうようなそういう感覚。

 

だから私はどうせダメなんだ、こんな自分だから人生うまくいかないんだ、こんな自分に生まれてしまったから、もうどうしようもできない、と、自分自身も周りも、諦める理由にしてしまったり。

 

だけれども、それを魅力だったり、天才性、先天的なものだととらえて、活かしていく道を学んでいったなら、本当に天才性を開花することができるようになります。

 

それで実際に、ほんとに、その人に合うやり方があるんですよ!!

息子でいえば、いっぺんにいろんなことを言われると記憶できないので、視覚的なものにすると理解できるとか、そういうやり方のアイディアは、発達障害やグレーゾーンの子どもたちが通える「療育」が教えてくれました。保育園とか、療育とかはそういう、ひとりひとりに合った教育だったはずなのに、大人に近づくにつれ、そういう教育方法じゃなくなっていく、軍隊みたいに、髪色はみんな黒とか、白い靴下じゃないとダメとか。

 

そういう制度になっていくのが不思議なのですが、でも、そういうふうに、ひとりひとりに合ったやり方がある。

 

私もまさにそうで、ある一定量を超えると、全然人の話覚えられなくなってきて、ゲシュタルト崩壊みたいになるのですが、ノートに書いたらすごく記憶できたりとか、まとめられたりとか。

 

人の人生を変える小説みたいに、その方の人生に携わるストーリーのようなサポートやコンサルタント的なお仕事がしたいのに、人と話すことが全然できないので、普通なら諦めるはずだったのに、メールサポートで、書く事だけを磨いて生きましょう、と竹川さんが言ってくれたから、私はサポートをすることができるようになりました。

 

なにもかも、やりたいことや、本当に生きたい生き方を、諦めずにすんだのです。

 

そういうのって、会社ではできないことも多い、会社には会社のルールがあるから。

でも、自分でブログというお店を自分自身で開いていくなら、どんなかたちでも自分なりの仕事のスタイルにオートクチュールでできるようになる。

 

だから私は、社会で生きづらさを感じる方ほど、ブログをおすすめしたいなと想っています。

 

あなたも、あなたの本当の輝きに気づき、活かしていく学びを、はじめてみませんか。

この場があなたにとってそんな場でありましたら、嬉しく想います。

 

 

お読みいただきまして、ありがとうございました。

 

 








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自分にしかできない魔法を探しに



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