自信がない、力不足や知識不足でも仕事で夢を叶える方法 ~足の悪いおばあさまから学んだ夢叶える道標

2020-02-10_09-06-25_941

空飛ぶ引きこもりライター千聖(ちさと)です。

今回は、高速バスで出会った、ある、海外のおばあさまからの学びをお伝えしたいと想います。

そこに、「こういうことやりたいけれど、自分はまだまだ知識も技術も勉強も不足していて・・・」というような状況でも、夢叶えることができる秘訣が隠されていたので、お伝えいたします。

 

足の悪いおばあさまが、高速バスに・・・

その方は、高速バスに乗ろうとしていた私よりさきに、バスの階段上にのぼっていたおばあさまでした。

バスの入り口のところに、何やら荷物が置いてあって、私はこれなんだろ・・?と見つめていたところ、先に乗っていたおばあさまから、英語で何やら話しかけられます。

私は英語があまり分からないのですが、荷物を指さして、Give me!と言っています。ああ、とってくれ、ということかな、と思い、その方にとって手渡しました。

 

そうして、席まで行こうとするそのおばあさまの様子を見ると、どうやら足があまりよくないご様子で、少しだけ引きずるようなかたちで歩いています。

その他にも、外国の方々が乗っていらっしゃって、日本人は日本人で、外国の方は外国の方で相席に、という感じになっていましたが、最近は海外の方も高速バス使うのかー!となんだかおもしろくなってきます。

 

さらに、降りるときのこと。私に、ここはKyotoか?と聴いてきて、私もYes,Yes,と答えて、おばあさまとまた一緒に降りることに。

その時にもおばあさまは、私に、荷物を運んでくれ、と言います。

ただ、私に全て任せる、というわけではなく、自分で出来るところは自分でやっていって、バスが止まるまでの間に、荷物を前の席まで運んでいました。

 

ただ、バスの階段だけは、どうにもできないようなので、手伝ってほしい、ということのようです。

その他も、身振り手振りで駅まで荷物を持ちましょうかと伝えたのですが、I Can、とおっしゃっていて、私はほんの少しだけお手伝いしただけで、その方とお別れしました。

 

その方とお別れして、ふと考えたこと

年齢的には、現代では、まだおばあさん、というのは適切ではないかもしれませんが、おそらく70歳手前くらいの方でしょうか。

だからなのか、私の祖母のことを思い出したのですね。

祖母はリウマチを患っており、祖母も、このおばあさまのような歩き方をする人でした。

 

そんな祖母は、足が悪いからどこにも行けないのよ、と言って、晩年は県外どころか、家の外に出かけることもほとんどしませんでした。

もちろん、その生き方がいいなら全然いいのですが、本当は京都での私の結婚式にも来たがっていた祖母で、元来は自由でのびのびした気質の人でした。

 

だから、その生き方が良かったかどうかは分からない。

じゃあこのおばあさまと、祖母の違いってなんだろう、と考えた時に、

 

「人の力を借りる」

 

ということが、大きな違いだなあ、と感じたのですね。

 

よくよく考えたらこれってめちゃくちゃすごいことだな、と感じて、海外で、言葉の通じないところで、足が悪くて荷物が運べないかもしれない。

そういう状況下で、旅に出る、というのはすごくリスクがあると感じますよね。

 

 

手伝いが必須であるにもかかわらず、その先で、言葉も通じない。

もし、誰の力も借りられなかったとしたら?

想像するだけで怖いですよね。

 

それでも、誰かに手伝ってもらえる。力を借りられると、おばあさまは全く疑っていませんでした。

なんて、世界に向けて心を開いているおばあさまなんだろう、と感動したのです。

 

それと同時に、ああそうか、こういう姿勢であれば、自分自身に不足しているものがあっても、現状で何か足りないことがあったとしても、やりたいことを叶えていくことができるんだ、というのをすごく力強く感じました。

 

誰かの力を借りることで叶えられるもの

お仕事をするときも、これは、私もよく感じることがあって、一人でブログでお仕事をするとか、独立起業することとか、そういうのはひとりでやることだけれども、でも、どこかのタイミングで、自分一人では進めないと感じる時がくるなあと思います。

 

例えば私の場合もいろいろありましたが、例えばサポートとか、コンサルみたいなお仕事もやってみたいと思っていた。しかも、やっぱり対面で会うことが大事だなあと思っていたのですね。

 

私はしゃべれないけれども、先生である竹川さんと、実際に会って、その人の目とか、話し方とか、雰囲気とか、実際に会うことでしか感じられない五感でのなにかがあるからこそ、本当の意味で、ああこの世界本当にあるんだ、とか、人を信じることができたりしました。

メールだけだと、行間とかに、ありもしない妄想をしてしまったりする。この行間、いつもと違うけど、もしかして怒ってる?とか、そんなことばかり考えてしまう時期があったけれども、会えばそんなことは私の妄想だったと気付いたりしました。

 

だから、会うこともすごく大事だと思っています。

でも、私は、しゃべれないので、対面で会うことはできない。その時点で、私の届けたい理想のコンサルの在り方を届けるすべが、なくなってしまうのですね。

だから、ああ、私ってコンサル向いてない、そういうのをお仕事にする人じゃないんだな、って諦めてしまっていたと思います。あるいは、しゃべることを磨かなきゃ!!となって、しゃべる技術を身に着けるという勉強の方向に走ってしまっていたと思います。

でも私がやりたいことは、「書く」ことであって、しゃべりたいなんて全く思ってないので、身に着けることができずに、ああ、私ってなんてだめなんだと思って堂々巡りになっていたと思います。

 

 

でも、竹川さんにそのことを相談したとき、竹川さんがふと、言ったのです。

 

「じゃあ一緒にコンサルやるのはどうですか」

 

!!!

 

私の世界に革命が起きました。

そうか・・・!竹川さんにしゃべってもらえばいいんだ、と!

 

竹川さんと2人で行って、竹川さんがしゃべったものに対して、私がまとめて、後日メールでお送りする。そういうかたちであれば、私にもコンサルというものができるかもしれない・・・!

という道筋が見えたのです。

 

そして私はそのやり方を磨いていって、有難いことに、おかげさまで、今に至ります。

今でも私は竹川さんがいるときにしか、人と会うことはしませんが、以前は全く何もしゃべれなかった状態から、今では、ノートもしくはパソコンがあった状態でなら、人と普通に話せることができるようにもなってきました。

 

人の力を借りることは、自然体

人の力を借りることは、恥であるとか、そんなことをしてはいけない、自分一人で立たなければいけない。

というような考え方がありますよね。

 

でも、自然界を見ると、本当に多くの動植物が、互いを助け合うからこそ生きている姿があります。

たとえば、ヤドカリは、イソギンチャクを自分の背負う貝殻にくっつけていくのですが、それはなぜかというと、タコとかに襲われたときに、イソギンチャクがいると、イソギンチャクが、毒針を出して攻撃してくれるからです。

イソギンチャクがいないと、ヤドカリはすぐにタコに食べられてしまう。

 

また逆にイソギンチャク側も、ヤドカリが食べ残したものを、食べて生きることができます。

イソギンチャクは移動できないので、普段は、偶然ご飯が落ちてきたり、通りかかるのを待つばかりなので、ヤドカリと一緒に移動したほうが、ご飯が食べられるのです。

 

もっと言えば、花とかは、ハチがいなければ、受粉できないものもあります。

自分自身が生きること、繫栄することであってさえ、他の種族の協力がなければ、それ以上増えることができないのですね。

 

それってすごいことだと想いませんか。

なんていうか、動くこともできないから、待つことしかできない。

ハチの好きな香りとかを出しているとは言われますが、それでもやはり、動けないことには変わりないので、あとは人事を尽くして天命を待つじゃないですが、あとはもう、全ては相手に任せる、というような姿勢で。

 

種の存続にかかわる問題ですら、そういう状態なので、あらゆることにじたばたしている人間からすれば、本当になんていうか、それこそまさに、自然体だなあ、美しいなあと感じます。

 

そして人間もやはり突き詰めると、子どもは一人では生まれないので、

誰かの助けを受け取らなければ、滅んでいくばかりなのが、もしかしたら、この世界の仕組みであり、自然体というものなのかもしれません。

 

たしかに、なんでもかんでもやってもらう、ということは、また違うと思う。

たとえばおばあさまは、手伝ってくれることを当たり前とするのではなく、自分で出来ることは自分でしっかりやる、というのもすごく伝わってきて、依存ではなく、自らの足で立つことを前提としての姿でした。

 

それでいて、でも、自分の叶えたいこととか、生きたいことを、諦めずにやるには?

そのために力を借りられると全世界どこにいても信じている、という姿に、私はめちゃくちゃかっこいいなと想ったし、感動しました。

 

竹川さんはそういう在り方を、「相互依存」と表現しました。

自分自身がどう在りたいか、というのをまず持ったうえで、相手のこうありたい、というものを、お互いに叶えていくようなかたちで、支え合う生き方です。

 

たとえばハチであれば、はちみつをいただけるので、花のところに行くわけであって、それは、自分をすり減らし、無理したり頑張ったりして、相手を助けるものではない。

 

 

竹川さんも、私をただ手助けしたというだけではなくて、竹川さんは私がいることによって、自分が一番理想とした、「しゃべる」という在り方だけに集中することができるようになったということ。

私もまた、自分が理想とする「書く」という在り方に集中することができたのです。

 

だからこそ、自分が我慢して相手に合わせすぎるのも違うし

逆に、自分一人でなんでもかんでもやろうとするのもまた違う。

 

でも、自分には価値がないのに、これだけやってもらうなんて申し訳ない、と想う時もあると思います。

だけど、もし誰かから、一緒にやってみませんか、と言われたのだとしたら、それは、相手にとっても自分自身のできなかったことを叶える道を、その人に見たということです。

 

そしてそれは、お金とか、目に見えるようなかたちだけではなくて、想いもそのひとつです。

私自身は、おばあさまを助けて、それに何か形となる見返りをもらったわけではありません。でも、おばあさまからお礼だったり、お役に立てて良かったという気持ちだったりとか、こういう生き方かっこいいなとか、生き様をもらったのですね。

誰かのために席をゆずったりすることも、何か形となる見返りを求めるわけではないですよね。

だから、それは相互依存だと想う。

 

だから、自分には何もないんだと「自分では」思っていたとしても、何かを差し出されたときや、誰かの力を借りられるときは、もっと受け取っていいと、それが相手の為にもなるんだと想っていい。

そうやってお互いにもっともっと成長していけるし、自分だけでは叶えられなかったものを、ともに叶えることができる世界に行けるんだと、そういうのが世界の仕組みなんだと、知っていただけたらなと想います。

 

お読みいただきまして、ありがとうございました。

 

千聖

 

 

夢を叶える、隠れ家

 

 

 








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