日本昔話の世界が当たり前にあった時代は現実が異世界だった
空飛ぶ引きこもりライター千聖(ちさと)です。
ちらほら山に彩りが添えられる今日この頃、いかがお過ごしですか。
そんな中、伏見稲荷に行ってきての気づきを、今日はお届けしたいと想います。
この時期の京都は人が多すぎるため、有名処の観光地には行かないようにしているのですが、今回はお客さんの写真を、伏見稲荷で撮るイメージが降ってきたため、伏見稲荷に誘われることになりました。
ただ、普通の時間帯にいくと、伏見稲荷はほんとに外国人の方で初詣か、というくらい混んでしまうので、朝8時に伏見稲荷で待ち合わせでした。
竹川さんは夜型なので、私もこの時間帯に待ち合わせははじめてです。
そんな神秘的な場所と時間帯で
何も起こらないはずがなく…
伏見稲荷は、参拝するのは、すぐできる場所なのですが、あの有名な千本鳥居を堪能するなら、山を登っていかなければいけません。
そんな伏見稲荷は、鳥居が多い中腹のお茶屋さんのあたりまでが人が多く、有名な見どころはそのあたりまで。
そしてそこまでいくと、たくさんの階段をのぼって疲れてしまっているので、多くの方は引き返したくなる場所です。
私たちも、その間に、まあまあいい感覚の写真も撮れたので、今日はもう下山しますか、という話にもなっていました。
だけど、その撮れた場所は、降ってきたイメージの場所ではなかったのです。
だからもうへとへとなのだけれども、
それでも登ってみよう、という感覚であともう一歩先に、というところに踏み出してみたところ
山の中へ中へと
入っていくような瀧の神社を見つけ入った瞬間
それまでお疲れになっていたお客さんが、
急に元気になられて、空気が違います、とおっしゃられます。
それまでは確かに千本鳥居は美しいのだけれども
前に来た時に感じた
伏見稲荷の厳かな空気感が薄く、疲れていらっしゃったようです。
だけれどもその山の中にある神社は
空気が澄み、静けさの中、
苔が蒸し、鳥居も自然の中に
沈んでいこうかとするような場所で、
本当に狐が居る、というような感覚で・・・
そこにまさしく、
降ってきたイメージの場所が、あったのでした。
そこで次こそは本当に納得のいく写真を、撮ることができました。
しかも、写真を撮っている間、ごくたまに人は訪れるものの、だけれども不思議なことに、神社までいくと、そのさきにはいくことができないはずなのに、行った人と帰ってきた人の人数が合わない、というようなこともあり
狐に化かされたのかもしれませんね、
と言いながら山を降りました。
そんな狐につままれたような時間でしたが
さらにそのあと、
和食さとでご飯を食べているとき、
お客さんがあるお話をしてくださいました。
それが、その方のお母さまが
子供のころの食卓で、よく話題に出ていたお話しで
おじいさんはぼーっとした感じの方で
よく狐に騙されて、葉っぱに泥団子を載せて、わーわー泣いて帰ってきていた、
おばあさんはすごくしっかりした人で、
しっ!といって追い払っていた、
というような話をしていた、というお話しでした。
その方はお母さまから、
その方のひいひいおばあさんや
おじいさんにあたる方とのそんな思い出の話を聴いたとき、
まるで日本昔話だな、
と思ったのを覚えている、と。
だけれども、ひいひいおばあさんや、おじいさんたちには、そういう会話は当たり前だったというのです。
ご飯を食べていたときに、
普通にそういう話が出ていたのだと。
それを聴いて私はびっくりしました。
竹川さんは、普通に、狐がいる、トトロがいる、というようなことを言う人なのですが、
そういう人たちが、
昔の日本人にはたくさんいたのかもしれない・・・
むしろそっちの方が、
当たり前だったんだ・・・
というのをすごく考えさせられたのです。
いまでこそ、
そんなことを言うと否定されたり
嗤われたりすることの方が、当たり前のようになっていて、それがずっと日本という国だと思っていました。
そういうのを感じる自由さを許さない国だと思っていた。
だから、ずっと息苦しい気持ちだった。
だけれども、本当は逆だったんだと。
そして、竹川さんは言います。
狐にやられた、
とか言っていると、
あの人が悪いみたいなことにならないですよね、と。
ああ、確かになあと。
狐に化かされた、という感覚だったなら、なんていうか、それは仕方ないという感じになったり、神様のいたずらみたいな感じでとらえることができ、人を責めることがないなあと。
お天道様が見ている、
という感覚もそうだけれども、
そういうふうに何かを見ることができた時代は、とてもとても、豊かだなあと想うのです。
そういう感覚を、忘れてはいけないよなあとしみじみ、感じさせられました。
そしてそれを想って、ふと思い出したのが、
私の母が、
「子供が生まれたら、
どうしても買ってあげたかったものがあって」
と言って教えてくれたのが、日本昔話全集みたいな絵本でした。
私は確かにその絵本たちは、とても好きで、何度も何度も、覚えるくらい読んだ絵本たちでした。
でも母がなぜ、どうしても買ってあげたいと思ったのが、日本昔話だったのか、結局分からないまま、母は宗教にはまり、行方不明になり・・・・
でも、狐に化かされたお話を聴いて、その理由がよくわかりました。
きっと母は、この昔の日本人の感覚を、私たちに伝えたかったんだ・・・・と。
そう想ったら、涙が出てきてしまいました。
離れていても、どこに居るかわからなくても、母がくれたものは、ずっとここにある。
この世界の美しさを、私が諦めないかぎり。
そんなことを考えた、狐とともにの1日の出来事でした。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
千聖
自分にしかできない魔法を探しに
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