我慢は本当に美徳ではなかった・・!我慢の本当の意味とは?
先日Wikipediaでこんな文言を見て驚愕しました。
我慢(がまん)とは、仏教の煩悩の一つ。強い自己意識から起こす慢心のこと。
四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。仏教では人間を固定的な実体として捉え、自己に執着(しゅうじゃく)することを我執(がしゅう)といい、その我執から、自分を高く見て他人を軽視する心をいった。
現在、一般的に自分自身を抑制し、また耐えるという「忍耐」の意味あいで用いられる「我慢する」は、もともと「我意を張る」などという強情な心意を介した転用で、近世後期から言われるようになったとされている。
え???つまりは、我慢って、耐えるとか忍耐の意味ではなくて・・・
自分を高く見て他人を軽視する心、傲慢みたいな意味だったってこと・・・!?
と知り驚愕でした・・・!
仕事とは我慢すること。
我慢の対価、我慢は美徳、そうしていった結果幸せになるんだと、よく父からも、祖母からも、教えられてきました。
でもそれがずっと、違和感で、というのも、我慢して生きている父や祖母は、全然幸せそうじゃなかったからです。また、我慢を強いられてきた母も。
仕事が嫌なのだと、ストレスからお酒やテレビやゲームやパチンコ三昧をしていた時期もある父。
家族と一切話さなかった時期もあります。
そして母は宗教にはまって出ていってしまった・・・
祖母も、たくさんのストレスを抱え、娘である私の母からは、あんたの育て方のせいで、となじられてお金をせびられ続け、そのストレスで亡くなってしまいました。
父や祖母が悪かったから母がこうなったというのではなく、母の問題は母の責任です。
だけれども、それらは、私にとって「我慢は美徳」という言葉に違和感を抱かせるには十分な出来事でした。
でも、この本来の意味を知ったら
つまりは「傲慢は美徳」と言い換えられてしまうということなの・・?
「仕事は傲慢の対価」とか・・・
長年苦手だった「我慢」がちょっとかわいく見えてしまいました。
我慢は傲慢
でも、そういわれてみれば、そうだな、と、好きな事を仕事にしている今、思うのです。
例えばラーメン屋さんが、ラーメン作るの嫌いだけどお客さまのために我慢して提供しているんですよ。
なんて言っていたら、すごく嫌な気分というか、お客さんにとって失礼なんじゃないかな、と。
作るの嫌だけどお前の為に作ってやってんだよ。
みたいな感じですね。
私自身も思い返せばそうで、自分が伝えたいと思っていなかったことを、会社の為に伝えなければいけなかったとき。
会社のために働いてやっているのになんでこんな給料安いの?と思っていました。
ブラック企業で給料が適正に払われない、というのであればそれは違うし、日本全体的に給料が低いというようなことは問題だけれども、ただ、自分でお仕事をするようになった今、毎月定額で、お給料がもらえるということは、すごいことだったんだな、と感じています。
それをしかも、何百人という人に対して、毎月変わらず給料を出していたあの会社に、今は、尊敬しています。私はまだまだその域ではないので・・・
しかも、これだけしかもらえない、と思っていたりは、いただいたお客さんに対して失礼なのです。
それをお支払いしてくださったお客さんがいらっしゃるのだから、有難いなと思って受け取っていくことが、本当は大切だったし、そして、なんていうか、そういうふうに受け取れた方が、使い方も大事になったりしますよね。
なんで私がこんな給料なの、と思っていたときは、使い方が本当に雑でした。
ストレス解消のためにやけ酒で居酒屋を週3で飲み歩く・・・
しかも居酒屋で楽しい話をしたりワカコ酒のワカコみたいになるならいいのですが・・・ただただ、愚痴を肴に飲んでいました。
それが本当にやめられない楽しさ・・でも次の日は自己嫌悪・・と、もはや中毒です。
貯金残高が数十円で、お金が足りなくなってリボ払いにして、リボ払い・金利が高いものってこんなに大変なの・・!?と実感したり。
それでまた給料が安いと愚痴る毎日・・・
人生を粗末に扱っていました。
でも、好きな事を仕事にしていたら、我慢という概念ではなくなります。
自分の本当に伝えたいことだったり、生きがいを感じたり、出会うお客さん出会うお客さん、本当に素敵な方ばかりで、この人たちと一緒に出来ることが幸せ過ぎる・・・!!!
そう思うことばかりなので、我慢というかもう毎日やりたいことがありすぎて時間が足りない、いただいたお金を、粗末に扱うことはお客さんの想いを粗末に扱うことです。そんなことは当然できません。
ですので今の生活では、当時の半分のお金で十分やりくりできるくらいなうえ、次の勉強のために投資もできたり、貯金もできます。
でもそれも、我慢してお金を貯めている感じではなくって、本当に使いたいものには、しっかり使う、それを使ったことによって、また良い文章としてお返しできたり、気付きがあって、伝えられることになったり。
決して贅沢をするわけではないのに、本当に使いたいものに、やりくりして大事に使うことの喜び。
例えば昔は、ストレスを耐えたご褒美に~!とコンビニでちょこちょこスナック菓子とビールを買って一袋夜食で食べながらビールで夜更かしする。
それが毎日でしたが、その毎日のをやめて(やめるよというよりもストレスがないのでそれをする必要はなくなり)代わりに、行きたかったカフェの朝ごはんに使う。
週2日それをやっても、ちょこちょこ買いをしていたときよりもお金的にも少なくてすむうえ、満足感が180度違いました。
それが本当の豊かさだったのだ、というのをすごく感じました。
だから、嫌々ながら仕事をすることも、いただいたお金を粗末に扱うことも、自分の人生を愚痴にまみれて生きていくことも、我慢している毎日は、たしかに、傲慢だと。
人間は生きているだけで地球の自然を食いつぶしていくところがある。
出来る限り調和して生きていこうという世界の情勢にもなっていますが、私だって、エアコンがないと寒い中では生きていけない。
野宿して生きる生活にすることはできない。
ゴミを出さずに生活することもできない。
最小限にしたところで、地球のエネルギーを借りぐらしのアリエッティ並みにお借りして生きていることに変わりはない。
だから、生きること一秒一秒が地球からもらったものだから、そういうのを雑に扱っている場合じゃないと今は思います。
そしてストレスなく生きることで、その資源を無駄に大量消費ではなく大事なものを大事に使うというような自然な使い方に変わっていくならば。
我慢して仕事をし続けることよりも、本当にやりたいこと、喜びがあふれること、これをやっていたら幸せだなああとじんわりくるようなもの。
そのために仕事をしていった方が、地球的な規模で言っても大事なんじゃないか、だから、我慢できない自分はダメだと思わなくていい、というのをすごく感じています。
だから、我慢は美徳ではなく、我慢は傲慢。
だから、もう我慢はしなくていい。
本当にやりたかったことで生きていっていい。
そのための発信を今年もお届けしてきます。
いつもありがとうございます。
千聖より
→我慢の対価ではなく、本当にやりがいあるお仕事をするための道のりとは
自分にしかできない魔法を探しに
コメント
- トラックバックは利用できません。
- コメント (0)
この記事へのコメントはありません。